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平成芭蕉の日本遺産 栃木県那須野が原「明治貴族が描いた未来~開拓浪漫譚」

日本遺産の地を旅する~栃木県那須野が原開拓浪漫譚

平成27年より始まった文化庁が認定する日本遺産に、栃木県那須塩原市、大田原市、矢板市、那須町の「明治貴族が描いた未来~那須野が原開拓浪漫譚~」が選ばれました。

日本遺産に関連する登場人物

栃木県では同じ平成30年に「地下迷宮の秘密を探る旅~大谷石文化が息づくまち宇都宮」も日本遺産に認定されています。

私は学生時代の親友が宇都宮大学の学生寮にいたため、しばしば宇都宮を訪ねては栃木県、福島県をドライブして巡っていたので、この地が日本遺産登録されて注目されるようになれば、とても嬉しく思います。

那須疎水

今回の那須野が原の日本遺産では、開拓の推進役であった「那須疏水」が構成要素に入っていますが、これは琵琶湖疏水(滋賀県・京都府)安積疏水(福島県)と並んで「日本三大疏水」と呼ばれています。

福島県の安積疏水は平成28年に「未来を拓いた一本の水路~大久保利通“最後の夢”と開拓者の軌跡」として日本遺産認定され、滋賀県の琵琶湖も平成27年に疏水に限定していませんが「琵琶湖の水辺景観~祈りと暮らしの水遺産」として日本遺産認定されています。

那須疏水公園の疏水説明板

私はクラブツーリズムの機関紙『旅の友』の「日本遺産の地に生きる」の取材もしていますが、今回は水の研究家でもあった芭蕉さんにならって、平成芭蕉として那須野が原の実地調査の旅に出ることにしました。

「安積疏水」と「那須疏水」の功績

私は平成29年に福島県郡山で「安積疏水」の日本遺産を紹介する講演をした経験から、「那須疎水」のストーリーも「安積疏水」と関連させて語りたいと思います。

安積疏水は明治の元勲、大久保利通が並々ならぬ思いを抱いて西の猪苗代湖より郡山へ水を引く事業でしたが、この那須疎水も人も住めない水の乏しい荒野の開拓地を灌漑するという難事業でした。

大久保利通の夢「安積疏水」

この那須疏水の開削には、地元の矢板武(やいたたけし)印南丈作(いんなみじょうさく)の2人がたびたび上京しては政府の有力者に水路開削の懇願を行いました。まだ、東北本線も開通していない時期で、東京に行くのも大変な労力と経費もかかったことと推察されます。

彼らの努力が実って、那須疏水は明治18年に内務省直轄の国営事業として本管水路が開削され、翌明治19年には第一分水から第四分水がほぼ完成し、本管水路は那須塩原市西岩崎の那珂川右岸より取水し、千本松に至る16.3㎞でした。そして4本の分水と共に約1万ヘクタールの那須野が原の荒野を潤したのです。

那須疎水公園

現在は那須塩原市西岩崎に那須疏水公園が整備され、「那須疏水旧取水施設」として那須野が原開拓のシンボルとなっており、東水門、西水門、導水路、余水路そして東隧道・西隧道が国の重要文化財に指定されています。

那須疏水旧取水施設

この那須疏水の恩恵によって、水が乏しく、人の住めない荒野であった日本最大の扇状地「那須野が原」に、次々と大規模農場が拓かれたのです。

那須野が原に明治貴族が描いた未来

そしてこの大規模農場を拓いたのは富国強兵・殖産興業を旗印とした明治政府の元勲や要職を歴任した貴族階級でした。
特に「華族」と呼ばれた貴族階級は、欧州文化と近代国家建設の情熱を燃やしてこの地に別邸を築き、大農場を開拓したのです。

その代表が大蔵大臣や内閣総理大臣を歴任した松方正義で、彼は政府の要職から離れていた明治26年、経営難の那須開墾社の土地を買い取り、大農具を導入して欧米式の大規模農場経営を始め、今日の千本松牧場の基礎を作りました。

そもそも松方正義が大久保利通の下で地租改正を行い、明治12年の安積疏水の起工式後に那須野が原を視察したことが事の始まりで、彼は県令の三島通庸(みちつね)に那須野が原の開拓を勧め、矢板武と印南丈作らには運河ではなく、疏水開削について指導したのです。

松方の別邸は千本松牧場の敷地内にあり、1階正面には日本遺産登録された大谷石が使われており、外見は洋風2階建てですが、小屋組み構造は伝統的な和風の小屋が用いられています。

千本松牧場内の松方別邸

「ドイツ翁」青木周蔵と華族の描いた夢から学ぶこと

また、明治日本においてドイツ通の第一人者と評された「ドイツ翁」青木周蔵は、明治14年に那須東原と呼ばれた官有地を払い受け、自身の青木農場を開設しました。
彼は駐独公使時代にドイツ貴族の経営する林間農業に強い関心を抱き、当地では山林経営にも力を注いで、山林育成には赤松と雑木の混交林としました。

そして、明治21年には自身の農場内にドイツ風の白亜の別荘を建て、敷地内には鹿を放牧し、繁殖させて鹿狩りを楽しんでいたと言われています。

旧青木家那須別邸

また、彼は子弟教育のために農場内に私立青木尋常小学校も開設しました。プロイセンの貴族令嬢エリザベート(エリーザベト)・フォン・ラーデ(Elisabeth von Rhade)を妻としたこともあり、青木周蔵は「ノブレス・オブリージュ」というヨーロッパ貴族の義務を正しく理解していたのでしょう。

*「ノブレス・オブリージュ」とは「高貴さは(貴族としての義務を)強制する」を意味し、一般的に財産・権力・社会的に地位のある者にはそれなりの義務が伴うことを指します。

松方別邸やこの青木家那須別邸などの那須野が原に残る華族農場の遺産を巡ると、近代日本黎明期の熱気が伝わってくると同時に、この地に来た明治貴族は自らが描いた夢だけでなく、貴族の務めであるノブレス・オブリージュの意識も持ち合わせていたことが分かります。

私は今回の調査で、当時の華族は「確たる理念をもち、現場を知り、夢を抱いて」荒野を開拓した勇敢な人々であると感じました。

すなわち、「那須野が原開拓浪漫譚」という日本遺産ストーリーからは、私はリーダーには尊敬できる理念現場の知識、そして夢を語れる人間的魅力が必要で、合わせて未来と地元への貢献という明治貴族のノブレス・オブリージュを学びました。

このノブレス・オブリージュの考え方は那須野が原の「日本遺産ガイド養成講座」でもご紹介させていただきました。

松方が開拓した千本松牧場

明治貴族が描いた未来~那須野が原開拓浪漫譚

日本遺産ストーリー 〔栃木県那須塩原市、大田原市、矢板市、那須町〕

わずか140年前まで人の住めない荒野が広がっていた日本最大の扇状地「那須野が原」

明治政府の中枢にあった貴族階級は、この地に私財を投じ大規模農場の経営に乗り出します。

近代国家建設の情熱と西欧貴族への憧れを胸に荒野の開拓に挑んだ貴族たち。その遺志は長い闘いを経て、那須連山を背景に広がる豊饒の大地に結実しました。

ここは、知られざる近代化遺産の宝庫。那須野が原に今も残る華族農場の別荘を訪ねると、近代日本黎明期の熱気と、それを牽引した明治貴族たちの足跡を垣間見ることができます。

日本遺産「那須野が原開拓浪漫譚」

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