日本遺産の地を旅する 大宰府 古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点
壱岐島の万葉公園開園50周年イベントを終えた翌週の11月22日、私は新元号の「令和」の文字を引いた万葉集巻五に収録された梅花の歌の舞台である大宰府を訪れ、九州歴史資料館において「令和を感じる旅」という演題で講演をさせていただきました。
令和時代の今日、お金と時間にいとめをつけなければ、私たちは世界中のどんな辺鄙な場所にも行くことができます。そこで残された最後の秘境は「過去」であり、古典を通じて古代の人々と心を通じさせる旅が「令和を感じる旅」だと私の想いを語りました。
すなわち、令和の旅のお薦めは、万葉時代の習慣を知り、『万葉集』に詠まれた地を訪ねて万葉人の物語に触れる旅です。
新元号が「令和」と決まった際、太宰府市は「令和」の典拠となった万葉集の序文に続く歌が、当時の大宰府長官 大伴旅人の邸宅で開かれた「梅花の宴」で詠まれたものだと発表しました。この梅花の歌は32首あり、大伴旅人を中心とするグループが天平2(730)年正月13日に詠んだとされています。
「初春の『令』月にして、気淑(よ)く風『和』らぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす」
「梅花の宴」は、当時、一般には珍しかった梅の花(白梅)をめでて開かれたとされ、筑前守だった山上憶良をはじめ大宰府や九州の高官たちが参加し、梅の花を題材に和歌が披露されました。
その後、梅は菅原道真の伝承とともに、時代を越えて太宰府と関連深い花として親しまれています。
宴が開かれた邸宅の場所については諸説ありますが、そのうちの1つが大宰府政庁跡の左奥にある「坂本八幡宮」付近と言われています。
かつては閑散としていた場所ですが、令和の時代になって参拝者が増えたこともあり、今回訪れると新しい令和の碑や社務所ができて賑わっていましたが、境内には邸宅主とされる大伴旅人の歌碑も建っています。
「我が岡に さ男鹿(をしか)来鳴く 初萩の 花妻問ひに 来鳴くさ男鹿」
(私の住む岡の近くに牡鹿が来て鳴いているよ 萩の初花を花嫁に得ようとやって来て鳴く牡鹿よ)
大伴旅人は大宰府に赴任してきてすぐに妻を亡くしており、自身の姿を妻問いに鳴く男鹿に見立てたのです。
古代日本の外交・防衛を司った「西の都」大宰府
この令和ゆかりの地となった福岡県太宰府市は、地名の由来となった地方最大の役所跡の「大宰府」や防衛施設の水城跡、観世音寺や戒壇院、菅原道真公を祀る太宰府天満宮など、多くの文化財を有する「歴史とみどり豊かな文化のまち」ですが、約1350年の歴史を誇ることから、平成27年4月には地域の歴史を語るストーリーとして、「古代日本の『西の都』~東アジアとの交流拠点~」が日本遺産に認定されました。
「西の都」と呼ばれた大宰府は、日本で最初に築造された国家レベルの防衛施設の水城や大野城など前代の要塞を利用し、その中に約 2キロメートル四方にわたって碁盤目の街区(大宰府条坊)を設けた本格的な都城で、水城や大野城は唐・新羅の日本への侵攻に備える防備でした。
大宰府政庁や関連する役所は街区の北の中央に据えられており、その前面には朱雀大路が敷設され、平城京朱雀大路の2分の1 という規格で国内2位の広さを誇っていました。
街には人びとの住まいとともに、官人子弟の教育機関(学校院)、天皇にゆかりのある寺院(観世音寺・般若寺)、迎賓館(客館)など、都と同様の施設が備わっていました。
すなわち、太宰府は、東アジアの国際標準の都の仕様で築かれた都市で、この地を訪れた人に日本の国際性を目に見える形で示すべく、国の威信をかけて築いた「西の都」だったのです。
そのため、「西の都」では、外国使節を迎え、国家による外交・交易が盛んに行われましたが、使節(賓客)はまず、博多湾岸の筑紫館(鴻臚館)に入り、それから大宰府に赴いたと考えられています。
すなわち、大宰府は人の交流拠点であり、外国の賓客をもてなす場所であったことから、文化的素養を持った人物が求められました。そのため、鑑真、空海、最澄などの知識人も滞在し、新しい文化が流入、その結果、大伴旅人邸で行われた「梅花宴」など唐から持ち込まれたばかりの梅の花をめでつつ、和歌を披露しあうという歌会文化が生まれたのです。
「西の都」を彩る西海道随一の観世音寺と日本三戒壇の一つ「戒壇院」
なお、空海や鑑真が滞在し、「西の都」で繰り広げられた交流により多くの文化・文物が集まった姿は、大宰府政庁東に位置する観世音寺に伝わっています。
観世音寺は、天智天皇発願の官寺で、観世音菩薩像を始め都や大陸文化の影響を受けた彫像が次々と造立され、外国使節の饗宴では舞楽で使者をもてなしていました。
また、鑑真は日本に漂着後、観世音寺に滞在し、753年、正式な僧になるための授戒を日本で初めて行いました。僧が守るべき道徳規範や集団規則を「戒律」といい、これを受ける「受戒」という儀式を経てはじめて僧尼と認められるのですが、この「戒律」は聖武天皇に招請されて来日した鑑真によって伝えられました。
鑑真は失明しつつも、6度目の渡航でようやく日本に着き、京に向かう途中、観世音寺を訪れて最初の授戒を行ったのです。
そのため、観世音寺の戒壇院は奈良の東大寺、下野の薬師寺と共に天下三戒壇のひとつとされ、多くの僧を輩出しており、授戒を行う戒壇そのものも現在に伝わっています。
さらに、観世音寺の梵鐘も日本最古の鐘であり、菅原道真が漢詩「不出門」で「観(世)音寺は只鐘聲を聴く」と詠んだ鐘です。
私は坂本八幡宮から大宰府政庁跡を散策し、大宰府展示館を見学、さらに大宰府学校院跡から戒壇院、観世音寺まで歩きましたが、この周辺に広がる景観は、多くの人々の遺跡保護への強い想いと努力によって守り伝えられていると実感しました。
令和の時代になって、観光客が増えるのは喜ばしいことですが、同時に「古都大宰府を守る」という意識が日本遺産の物語と共に受け継がれていくことを祈念します。
古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点~
日本遺産ストーリー 〔福岡県太宰府市〕
大宰府政庁を中心としたこの地域は、東アジアからの文化、宗教、政治、人などが流入・集積するのみならず、古代日本にとって東アジアとの外交、軍事の拠点でもあり、軍事施設や都市機能を建設するのに地の利を活かした理想の場所であった。
現在においても大宰府跡とその周辺景観は当時の面影を残し、宗教施設、迎賓施設、直線的な道や碁盤目の地割跡は、1300年前の古代国際都市「西の都」を現代において体感できる場所である。