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平成芭蕉の日本遺産 和歌山県広川町「百世の安堵~『稲むらの火』の物語」

日本遺産の地を旅する~和歌山県広村町の防災遺産「濱口梧陵の広村堤防」

全国初の防災に関する日本遺産

広川町「百世の安堵」の歴史

日本は風光明媚で美しい自然に恵まれた豊かな国ですが、それゆえに洪水や高潮、地震や津波、がけ崩れや土石流、さらには火山の噴火など、自然現象による自然災害が多く発生します。

そこで私は、平成30年11月10日(土)、午後1時より群馬県の嬬恋会館で国土交通省が主催する「地域の防災と活性化を考える」特別講演で主として土砂災害対策を中心にお話しをさせていただきました。

シンポジウムの目的は住民や観光事業に携わる関係者が、防災意識の向上を図り、災害に備えた安全な暮らしと人と自然が共生できる活力ある魅力的な町づくりです。

私は浅間山草津温泉で代表される吾妻川上流域の魅力を活力につなげるためには、やはり多くの人に防災に対して関心を持っていただくことが必要かと思います。

その意味では、和歌山県広川町の『「百世の安堵」~津波と復興の記憶が生きる広川の防災遺産~』という防災に関するストーリーが日本遺産に登録されたことは意義深いことです。

これまでに魅力ある文化財を中心としたストーリーが日本遺産として登録されていますが、防災遺産に関するストーリーが日本遺産に認定されたのは、これが全国初です。

風光明媚な広川町と津波対策

広川町の「広村堤防」

広川町は、醤油で有名な湯浅町の隣に位置しており、かつては広庄(広村)と呼ばれて熊野路往還としてにぎわった場所ですが、起伏なす紀伊山脈が海に迫り、複雑な海岸線には岩礁と砂浜が点在する風光明媚な土地柄です。

しかし、深く入りこんだ湾の最深部の低地にあるため、津波の危機と背中合わせの地で、江戸時代末期の1854年(安政元年)11月5日、突如地震が発生して暗闇の町に津波が襲ったのです。

そして、その津波を察知した濱口梧陵は、暗闇の中で村人を避難させるために、自身の大切な財産である「稲むら」に火を放ち、避難ルートを示して多くの命を救いました。

津波の後も彼は私財を投げうって田畑の復旧や家屋の新築、さらに「広村堤防」の築造を行い、村の復興に尽力しました。

日本遺産のタイトルにある「百世の安堵」とは、この広村堤防建設時に濱口梧陵が語った言葉「築堤の工を起こして住民百世の安堵を図る」から来ています。

実際、安政の地震から約90年後に再び津波が広川町を襲いましたが、この広村堤防によって村は守られたのです。

「稲むらの火の館」で地震と津波について学ぶ

私は広川町の「稲むらの火の館」にある津波防災センターを訪ね、地震が起きるしくみと津波の威力を学習し、併設される濱口梧陵記念館では彼の偉大な功績とともに暖かい人柄にも触れてきました。

日本は2つの陸のプレート(北アメリカプレート・ユーラシアプレート)と2つの海のプレート(太平洋プレート・フィリピン海プレート)が接する場所にあり、日本列島の下では海のプレートが陸のプレートの下に斜めに沈み込む動きが進行中で、その引きずり込まれた陸のプレートのはしが、元にもどろうとはね返るときに地震が発生するのです。

有名な南海トラフとは、フィリピン海プレートが日本列島の下に沈み込んでいる約700㎞の海溝のことを言います。

「稲むらの火の館」を見学した後は当時の村人が避難した高台にある「広八幡神社」を参拝し、広村堤防も歩いてみました。

「広八万神社」には、津波から村人を救った濱口梧陵の功績を刻んだ勝海舟撰文の碑が建っており、神社の石垣には一見ただの穴に見える土公神(どくじん)もいらっしゃいました。

「稲村の火の館」と津波防災センター

「生ける神」濱口梧陵の遺志を継いだ広川町

この出来事は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)『生ける神(Aliving God』として世界に発表され、その後、小学校教師であった中井常蔵氏が『稲むらの火』として著し、昭和12年から昭和22年まで小学校読本に採用されました。

濱口梧陵は村人を救っただけでなく、ヤマサ醤油7代目という実業家としても活躍、さらに今日の耐久高校の元となった「稽古場(耐久社)」も開設して、教育にも力を注いでいます。

1864年(元治元年)にはヤマサ醤油が江戸幕府より品質のすぐれた醤油(最上醤油)の称号を得ていますが、梧陵の後を継いだ8代目の梧荘は国産ソース第一号のミカドソースを作って米国に輸出しています。

これは、日本も将来、洋食の時代が来るであろうと海外にも目を向けていた梧陵の遺志を継いだものと考えられます。

私の母校の福沢諭吉先生も濱口梧陵を「博識の人なり」と評していますが、私は「博識にして情に厚い行動の人」だと思います。

なぜならば、濱口梧陵は身をもって、災害から身を守るには早めの非難が大切であり、「まずは自分が避難し、率先して避難を呼びかける」行為こそが大切であると教えてくれているからです。

2015年には国連で11月5日が「世界津波の日」として制定されましたが、これは広川町に受け継がれた濱口梧陵の防災意識が世界に認められた証左だと思います。

小泉八雲の『生ける神』

「百世の安堵」~津波と復興の記憶が生きる広川の防災遺産

日本遺産のストーリー 〔和歌山県広川町〕

広川町の海岸は、松が屏風のように立ち並び、見上げる程の土盛りの堤防が海との緩衝地を形づくり、沖の突堤、海沿いの石堤と多重防御システムを構築しています。

堤防に添う町並みは、豪壮な木造三階建の楼閣がそびえ、重厚な瓦屋根、漆喰や船板の外壁が印象的な町家が、高台に延びる通りや小路に面して軒を連ね、避難を意識した町が築かれています。

江戸時代、津波に襲われた人々は、復興を果たし、この町に日本の防災文化の縮図を浮び上らせました。

防災遺産は、世代から世代へと災害の記憶を伝え、今も暮らしの中に息づいています。

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