日本遺産の地を旅する~神が創り出した聖地出雲の夕日
島根県弁の方言で夕方は「ばんげ」と言うことから、出雲地方には「こんにちは」と「こんばんは」の間に「ばんじまして」という挨拶があります。標準語に直すと「夕方ですね!」となるのでしょうか。
他の地域ではあまり耳にしない「ばんじまして」という挨拶から、出雲では太陽の沈む時間である夕刻には格別な想いがあるようで、島根半島西端の海岸線に沈む夕陽はとても美しい景観です。
特に出雲神話の舞台となった「稲佐の浜」や「日御碕(ひのみさき)」から鑑賞する夕日は絶景で、平成29年には「日が沈む聖地出雲~神が創り出した地の夕日を巡る~」というストーリー名で日本遺産に認定されました。
今回は古代史をテーマとしたツアーを企画する目的で出雲大社や万九千神社、八重垣神社、神魂神社、須我神社などの古事記ゆかりの地を巡りましたが、やはり、日御碕神社と稲佐の浜から鑑賞する夕日は印象に残りました。
稲佐の浜は、『古事記』の「国譲り神話」や『出雲国風土記』の「国引き神話」の舞台となった浜です。
浜辺の奥に大国主(オオクニヌシ)大神と武甕槌(タケミカズチ)神が国譲りの交渉をしたとされる屏風岩があり、海岸の南には国引きの際、島を結ぶ綱となった長浜海岸(薗の長浜)が続いています。
また、この稲佐の浜では旧暦の10月10日、日没を待って、全国から参集される八百万の神々をお 迎えする「神 迎 え 神事」が執り行われおり、太古から変わらない日の入りへの思いが今日まで連綿と受け継がれています。
大国主大神はこの浜で屏風岩を背にして自身の霊が住むための宮を築くことを条件に国譲りを承諾されましたが、日本人の「和を以て貴しとなす」の精神の原点はここにあるような気がします。
古事記神話と日が沈む聖地出雲
その大国主大神が祀られた出雲大社は、この稲佐の浜から東へ 1km ほど離れたところにあり、『日本書紀』では「天日隅宮(あめのひすみのみや)」と記されていることから、夕日に因んだ社であったことがわかります。
日御碕神社では毎年8月7日に、神職によって夕日を背景に した「神幸(みゆき)神事」が執り行われています。
日御碕神社には須佐之男命(スサノオノミコト)祀る神の宮と天照大神(アマテラスオオミカミ)を祭神とする日沉宮(ひしずみのみや)があります。
しかし、太陽神の天照大神はこの出雲では日の出の太陽ではなく、日の入りの夕陽に象徴され、江戸時代には日沉宮は日が沈む聖地の宮と称されていました。
また、南東の高台には月読命(ツクヨミノミコト)を祀る月読社(つきよみしゃ)もあり、須佐之男命を含めて三貴神がこの出雲に沈む夕日を見守っているのです。
古くから「日」に縁がある岬として知られていたこの地には、日御碕灯台が建っており、今日では白亜の灯台越しに沈む夕日が、打ち寄せる波頭や海に浮かぶ岩礁を赤く染め、まさに絵画に描かれたような絶景の夕日を観賞することができます。
古来、都のあった大和から見ると、出雲は太陽の沈む北西にあり、このことから出雲は「日が沈む海の彼方の異界につながる地」として認識されたと考えられます。
そのため、『古事記』や『日本書紀』では、出雲が「黄泉国 (よみのくに)」と「地上世界」をつ なぐ地として描かれており、東出雲町揖屋にある黄泉比良坂(よもつひらさか)は現世と黄泉の国を繋ぐ道として知られています。
日本の最西端である長崎県五島列島の福江島の三井楽は「亡き人に会える島」、「此岸と彼岸の交わる場所」とされ、その三井楽の海岸に沈む黄金色の夕日も印象に残っていますが、出雲の夕日は日が沈む聖地として 認識されていることから、また格別の感動が味わえます。
この令和の時代になって「稲佐の浜」や「日御碕(ひのみさき)」から海に沈む夕日に祈り、古事記神話にちなんだ出雲大社(天日隅宮)や日御碕神社(日沉宮)などの神社や主要な神々の登場地を巡ると、聖地出雲の祈りの歴史 が体感できる気がします。
「日が沈む聖地出雲」という日本遺産の物語を知れば、平成芭蕉もやはり日本人である以上、夕日を神聖視して畏敬の念を抱き、有難い日の出に感謝する気持ちが大切だと思いました。
日が沈む聖地出雲~神が創り出した地の夕日を巡る
日本遺産ストーリー 〔島根県出雲市〕
島根半島西端の海岸線は、出雲神話の舞台となった「稲佐の浜」と「日御碕」の名で親しまれる夕日の絶景地です。この場所には全国的に名の知れた「出雲大社」と「日御碕神社」が鎮座していますが、それぞれが「天日隅宮」と「日沉宮」という名を持つ、夕日に縁の深いお社であることはあまり知られていません。
古代、大和の北西にある出雲は、日が沈む聖地として認識されていました。とりわけ、出雲の人々は夕日を神聖視して、畏敬の念を抱いていたと考えられます。
海に沈むこの地の美しい夕日は、日が沈む聖地出雲の祈りの歴史を語り継いでいます。