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平成芭蕉の日本遺産 岡山県倉敷市「和と洋が織りなす日本一の繊維のまち」

日本遺産の地を旅する~「日本一の繊維のまち」天領の倉敷

塩田から綿花栽培、帆布・ジーンズ製造まで綿花が紡いだ人と町

鷲羽山レストハウスからの眺め

先週は戦艦大和の故郷である呉を訪れましたが、今日は同じ瀬戸内海の吉備の児島にやって来ました。

JR児島駅前には太宰府長官の任期を終えて奈良の都に帰京する大伴旅人が、筑紫の娘(児島)を思い出して詠んだ万葉歌碑があります。

倭路(やまとぢ)の 吉備の児島を 過ぎて行かば 筑紫の児島 思ほえむかも

倭路は筑紫道と呼ばれた大和と九州を結ぶ主要航路で、児島はこの海路の中継地であり、万葉の時代から交通の要衝だったのです。

江戸時代に倉敷が幕府の直轄地たる天領になったのも、この地が歴史的に交易上の重要拠点であったことが大きな理由です。

今回の視察ははこの児島エリア倉敷エリアの日本遺産ストーリーを倉敷市日本遺産推進室の方とめぐるファムトリップです。

まずは瀬戸内海を一望できる鷲羽山レストハウスで昼食をとった後、鷲羽山頂上から瀬戸内海と児島の旧塩田地帯の展望を楽しんだ後、最初の視察事業所である「ニッセンファクトリー」に向かいました。

児島は製塩業新田開発で財をなした野崎家のおひざ元で、新田は塩を含んでおり、米作には不向きでしたが、良質の綿花栽培には適していました。

そのため、この綿の栽培から糸を紡ぐ紡績業、生地を織る織物業など繊維産業のすべての工程がこの児島エリアで形成されたのです。

この児島で最初に生まれた製品は「真田紐」と呼ばれる細幅の織物ですが、明治期になると足袋、そして昭和期に入ると学生服と生産がシフトしました。

そして、昭和の後期からは作業服、とりわけジーンズの生産が主流となり、平成になってからは「国産ジーンズの聖地」となったのです。

児島の繊維産業と歴史の中で紡がれてきた職人気質

せんいのまち児島のジーンズ工場

最初に訪れた「ニッセンファクトリー」はジーンズ(デニム)の洗いと染色だけでなく、ダメージ加工等の特殊加工も行っている会社ですが、汚水処理施設を完備した環境にやさしい工場でした。

丈夫な帆の素材として知られる倉敷の帆布メーカーである「タケヤリ」工場では、クラシックな織機から最新鋭の織機まで見学させていただきましたが、綿糸を巻いたボビンである「チーズ」や「コーン」といった懐かしいい言葉が印象に残りました。

というのも私の父は朝鮮戦争で米軍が残していったナイロン製のパラシュートを再資源化する繊維のリサイクル会社を創業し、私も一時、父の事業を継承して繊維業界の視察は日常業務だった頃があるのです。

その関係で繊維機械については、紡績メーカーの紡績織機から最終製品加工におけるミシンに至るまで馴染みのある光景でした。

そこで、今回訪れたTCB株式会社職員のジーンズ縫製ミシンに対する愛情には感動しました。

すなわち、繊維機械の仕組みは基本的には昔から変わっておらず、味のある製品は昔ながらの機械を使った方が適していることもあるのです。

私も自社工場で古い機械を大切にしている社員を見て、一緒に修理をした経験があるので、この児島地区の加工業者の方々の機械を大切に扱っている姿と職人気質に触れて、繊維産業の素晴らしさを改めて感じました。

「塩田王」野崎武差衛門ゆかりの野崎家

翌日は「塩田王」と呼ばれ、福田新田を開発した野崎武左衛門ゆかりの旧野崎家住宅を見学しました。

私はこの国指定の重要文化財は何度か訪れていますが、今回は辻事務長自らのご案内でしたので、これまで解説のなかった幕末に尊皇派として活躍した森寛済の「牧童図」石垣についても触れていただいたので、この塩業歴史館に対してますます興味がわきました。

しかし、一番驚いたのは野崎武左衛門を顕彰した見事なオベリスクです。

本来ならば創業者の野崎武左衛門の像があっても不思議ではないのですが、このオベリスクは地域の人々が野崎家に感謝の気持ちを込めて建てられ、「野崎の記念碑」と呼ばれています。

「塩田王」野崎武左衛門顕彰オベリスク

倉紡記念館と大原美術館の大原孫三郎、聡一郎

次に訪れたのは倉敷民芸館倉紡記念館です。

共に解説付きで見学しましたので、これまで見落としていた点もいろいろとあって、改めて旅の喜びは発見とときめきで、そのときめきを味わうには知恵が必要であることを再認識しました。

特に倉紡記念館で初めて見た映像からは、クラボウの経営理念や第2代の大原孫三郎社長の事業を通じた社会貢献の精神が伝わってきて、ヨーロッパ貴族の「ノブレス・オブリージュ」を感じました。

「ノブレス・オブリージュ」とは「位高ければ徳高きを要す」といった意味ですが、大原美術館の創立者でもある大原孫三郎だけでなく、ビニロンを工業化した第3代の大原聡一郎社長からもその精神が伝わってきます。

倉敷の繊維業界の発展は天領倉敷の地に生まれたこの倉敷紡績の歴史を抜きには語れません。

すなわち、この倉敷では天然繊維の綿からレーヨン(人絹)ビニロンの合成繊維が生まれるまでの日本紡績産業の通史が学べるのです。

しかし、繊維業界では「川上から川下まで」どいう言葉があり、原料を知って製品を知るので、現在、この地に原料たる綿花の姿がないと画竜点睛を欠いています。

そこで、塩害に負けない「一輪の綿花」を主要観光地に展示し、塩田王の野崎家から紡績の大原家までの歴史を理解してもらった上で、「国産ジーンズの聖地」をアピールすると繊維の町「倉敷」が実感できると思います。

「倉紡記念館」大原孫三郎社長のデスク

一輪の綿花から始まる倉敷物語~和と洋が織りなす繊維のまち~

日本遺産のストーリー 〔岡山県倉敷市〕

400年前まで倉敷周辺は一面の海だった。

近世からの干拓は人々の暮らしの場を広げ、そこで栽培された綿やイ草は足袋や花莚などの織物生産を支えた。

明治以降、西欧の技術を取り入れて開花した繊維産業は「和」の伝統と「洋」の技術を融合させながら発展を続け、現在、倉敷は年間出荷額日本一の「繊維のまち」となっている。 

倉敷では広大な干拓地の富を背景に生まれた江戸期の白壁商家群の中に、近代以降、紡績により町を牽引した人々が建てた洋風建築が発展のシンボルとして風景にアクセントを加え、訪れる人々を魅了している。

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